昭和28年02月23日 参議院 水産・法務・外務連合委員会

[003]
証人(第一大邦丸船長) 浜行治
私は第一大邦丸の船長浜行であります。

私は昭和28年1月22日午前10時、僚船第二大邦丸と共に福岡を出航し、同日18時頃二神、大島海より農林漁区275区に進路を定め、同月24日午前2時、推測275、推測左下附近に到着操業を開始しました。

同附近で3日、更に推測283区西下附近で操業、2月4日推測284区西下附近で操業中午前7時本船の南西方より北上する漁船2隻あり、本船の西方約1マイル附近より順次進路を東に転じて、本船第一、第二大邦丸に接近して来ました。接近して来て日本語で「魚は獲れますか。」と話をした。そのまま行過ぎ、その附近で停止して操業状態にありました。当時船上には投網準備がしてあり船員のみしか見えませんでした。それで私たちはこれはこの附近で操業するもののみと思って操業しておりましたが、丁度揚網時間が来たので第一、第二大邦丸を接近して第二大邦丸のワイヤロープをもらい、第一大邦丸は揚網作業にかかったのであります。

この接近した船は約55トンくらいの木船で、一見日本の漁船と何ら変るところはありませんでしたが、南鮮のマークが操舵室の横に書いてありました。

そこで第一大邦丸が揚網中ワイヤロープ600メートル、綱約200メートル揚ったとき、右舷船尾距離30メートル附近より突然発砲して来ましたので、その綱を切断して直ちに遁走に移りました。当時この昌運丸船上には兵隊らしき服を着た者が5、6名自動小銃で狙撃いたしておりましたが、我々は一心に遁走しましたが、8時15分頃僚船第二大邦丸が拿捕されておりましたが、私たち第一大邦丸はそのまま逃走しておりましたが、操舵室附近に命中弾が余り烈しかったので遁走を断念して停止しました。このときに昌運丸は本船に接近して来て「翰林に行け」と日本語で言いました。そのときに第二大邦丸は第二昌運丸に曳航されて翰林へそのあとは随航して行きました。

そのときに操舵室の中央に休憩中でありました瀬戸漁労長にこの旨を伝えましたが、瀬戸漁労長は何も返事をしなかったので、不審に思ってよく調べてみると、右後頭部に弾丸が命中しておりましたので、早速船医を呼び手当をしました。

拿捕された時間は午前8時30分頃で、これより、昌運号に守られながら済州島の翰林面という所に随行しました。時間は午前11時30分頃で、入港後早速憲兵に負傷者のある旨を伝え、病院の手配を依頼し、収容されましたのが翰林面の高医院という普通の民間家でありました。病室は勿論設備も全くなく、医師は診ただけでこれは駄目だと言って何の手当もしてもらえなかったので、我々船員は警察へ行ってこのことを言って、軍病院かどこかに入院させることを依頼したのでありますが、警察は、我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はないと拒絶されたので、憲兵隊に行ってこのことを言って、病院に収容することを依頼しましたが、そのとき憲兵隊長は盲貫銃創だからとても駄目だと言って断られたのでありましたが、船員側から再三再四頼んだあげくやっと軍病院へ入院することが許可され、そのときに車は直ぐ来ますからというのでそのまま負傷者のところへ行き、軍病院へ行くまでの間でも死なないようにと思って、医者にリンゲルを1本うってくれることを要求しましたが、リンゲルは韓国では11万円ぐらいしますので、医者は躊躇しましたが、我々は私物を売ることを約束してやっとリンゲル1本うってもらいましたが、待てども車は遂に来なく、4日の23時リンゲル1本をうったのみで負傷者はそのまま死亡しました

そしてその翌日負傷者を解剖しましたが、その解剖は死因の究明でなく、命中した弾の摘発によって軍の弾であるか、或いは警察の弾であるかということを判明さすためでした。これは私が解剖した医師より直接聞いたのであります。結局解剖の結果摘発されたのは憲兵隊の弾であることが判明しました。

そして翌日火葬いたしましたが、5日目より警察にいろいろ我々より頼んでみましたが、何の手配もされなかったので、私たちは寝棺から荼毘に至るまで一切我々船員の手でいたしましたが、薪に至っては1把1万幾らもするので、私たちはそれを買う金も持っていなかったので、私物を少々売って少し薪を買いましたが、私物にも限度があり、火葬するだけの薪が集められなかったので、足らない分は附近の松の枝などを折って来て我々の手で火葬したのであります。場所は翰林より約2キロぐらい離れた野原で行いました。

そして漁獲物は一、二大邦丸共合せて1650箱約1万貫ぐらいありましたが、それは韓国の警察によって没収されました。我々が入港当時、負傷者を病院に連れて行った後、憲兵が武器の有無を理由に船内を調べましたときに、私物及び船備品の目ぼしい物はすべて持去られておりました。翰林に入港して7日より全員監禁状態にされ、場所は警察署の前の防空団詰所でありまして、広さは約4畳ぐらいの所に18人監禁されました。食糧に一切支給されず船内食糧を差入れておりました。取調べの内容は本籍、現住所、氏名、宗教、思想、出航より拿捕されるまでの操業状況及び拿捕位置こういうものがありまして、拿捕位置については我々は翰林に入港した行程及び針路を逆算し、又操業当時の水深底質等で推測北緯33度33分、東経125度55分でありましたが、当時昌運号船長の証言は翰林より9哩附近であると主張しましたが、私は昌運号のコンパスの時差及び速力などを鋭く指摘しますと、それでは君たちの位置と昌運号の位置の中間をとろうというので、翰林より約13哩附近を拿捕位置として捺印させられました。

10日20時頃突然済州に連れて行くというので、私たちは私物を警察に預けて、中型自動車に乗せられましたが、そのとき船内に残っておりました者が何も遺骨を持って来なかったので、私たちはせめて遺骨だけでも我々と共に行動したいと言いますと、警察署長はもう時間がないから駄目だと言って断られましたので、我々は車に乗ることを強硬に反対しますと、それでは1人だけ残して残ったあとの者は船で明日済州へ回送するというので、やっと納得して10日に済州に送られました。済州では10日23時頃済州警察査察課第二係に渡されました。その日は食事を与えられずそのまま留置場に入れられました。留置場は約4畳ぐらいの間に便所があり、他の韓国人と一緒に入れられました。食事は粗麦を約1食1合くらい、1日2食で、おかずはほんだわらの塩もみでした。

済州での取調べの当時、我々に最初は李ラインをどうして侵犯したというので、私たちは李ラインは韓国が一方的にきめた法律であって、何ら国際法上認められていないということを言いますと、次にそれではクラーク・ラインはどうして侵犯したかと言いますので、クラーク・ラインは設定された当時、業者側より陳情に来たときに、米国公使より作戦の妨害にならなければよいという説明がありましたので、私たちはそれを信用して入った、こういうことを言いますと、韓国の領海は島と島とを結んだ線より外3哩は領海であると言い張りましたが、島と島とを結んだ線が領海であるということを言っておりました。そうして私を調べるに当りましては、最初に瀬戸漁労長はこういうことを言うたが、君の言うのは嘘だ。漁労長のとは全然違っているというようなことを言って、係官はメモをして来たものを持って来た。それは韓国字と日本字で書きましたので、調書にはどういうことを書いたか私たちにはわかりませんでしたが、あとでそれを読んで聞かせましたが、そのときに済州島の極く近距離まで接近したということが書いてありましたが、その場所は海図上においても実際に曳網される場所ではありません。海図を出して調べるときには丁字定規一つを持って来て、たばこ及びマッチを以て測るような測り方をしておりました。

留置場に入れられて食糧は我々は全然口に入れられぬような有様であったので、取調べの際に再三、再四私たちより外事主任に何とかしてくれるようにと頼みましたが、その後何とか考えましょうというだけで、何ら待遇を改善されませんでした。

そうして突然2月15日午前7時頃外事主任より君たちは今日帰すというので、留置場から出されて、その日査察課に全員集り、中型ジープで水上署まで連れて行かれました。そのときに、査察課の課長が挨拶をしましたときに、死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれないのだからと、こういうことを言っておりまして、余り内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないようにしてくれというような挨拶があって、午後1時に船体の受渡があり、13日済州を出港して、16日17時半頃佐世保に入港しました。航行中は米国のフリゲート艦70号より護衛されながら佐世保まで入港して、19日佐世保を出港、20日午前7時福岡に入港しました。

大体私の証言はこのくらいです。



[005]
証人(第二大邦丸通信士) 切手律
私が第二大邦丸通信士切手律であります。只今第一大邦丸の船長より説明がありましたのでそれの抜けましたようなところをば入れましてこれを補足したいと思います。

拿捕されたときの状況は第一大邦丸、第二大邦丸が操業しているとき、私の乗っておりました第二大邦丸の左舷約5メートルから10メートルのところに来まして、魚は入るかということを聞きましたので、今船長が申上げた通りであります。そのとき私はブリッジの戸をあけて見たのでありますが、そのときは官憲らしいものは全然なく、網を使って投網できる状態にしてありました。

次に8時5分頃より私は通信状態に入りまして、韓国手繰りに接近され襲撃を受け今遁走中という第一報を発しました。その後詳細に福岡漁業無線所に対して電報を出したのであります。

8時5分頃通過して行ったその第一昌運号は再び引返しまして、そのときワイヤ・ロープを第一大邦丸に渡して水深測定のため後走を開始しました第二大邦丸の左舷後方より突然発砲して来たのであります。そのときに停止命令は全然私ども2隻の船員全く聞いておらないわけであります。そのとき拳銃であったように記憶いたしております。そのとき私らは何のために打たれたのかもわかりませんし、身の危険を感じて遁走を開始したのであります。遁走を開始いたしましたけれども相手は相当に速力が速く、私らの7マイルぐらいの速度に対して9マイルくらいの速度であり、又最初から距離が近かったので約5分から10分にして拿捕されましたのであります。第一大邦丸に残している弾痕は約78発でありまして、私の第二大邦丸に命中しております弾痕はブリッジ1発、艫その他で約11発であります。

拿捕されました時間は第一大邦丸の船長は8時30分と申しておりましたが、私の時計ではそのとき8時20分。そうして約1時間曳航されてロープが切れ、そのためあとは独走して来たのでありますが、最初から曳航されている途中も第二大邦丸の後走しておりますので速度は大体同じくらいの速度であったと記憶いたしております。

11時20分翰林に入港し、それより瀬戸漁労長の収容なんかありまして、そうしてその日の夕方より船員名簿の作成その他船長の留守を預りまして私が代理したのであります。そしてその夜狭い消防団詰所に収容されまして、そして大体9日頃までに調書の作成を終りまして、そして10日の夜済州邑に着き、そして済州邑でも同じく取調を受け、そして15日釈放され、まあ日本に帰国したのでありますが、その取調の内容につきましては、大体本籍、現住所その他大体今船長が申しました通りで、そのとき、翰林面におきましては僕らの主張する点を大体に認めてもらえたように思いましたけれども、済州邑に行って警察局の外事係で取調を受けましたときに、私らは申し立てましたが、そのとき、向うが、あとで調書を作成したものを読み聞かしてくれた前のとは全然別個なものが来ておったと感じました。それは位置その他につきましては特にそれがひどく、お前はこういうことを翰林では申し立てながら、どうして済州邑に来て、ここではこういう嘘を言うかというように強要され、今船長が相手の測定方法を申しましたが、船員が、大体済州島より30マイルぐらい、これはまあ最初操業しておったときの状態でありますけれども、30マイルぐらい離れたところで操業しておったと申述べるのに対し、相手の係官はその30マイルを、あそこの済州に漢羅山という高い山がございますが、あれの頭より、その方向を以て測りますためにその位置たるや、同じ30マイルでございましても、それの下のほうから、少し西のほうの海岸のほうから測りましたら、そこがたった7、8マイルぐらいしか離れていないのであります、海岸線のほうから。そういう測り方をしまして、それでもどっちにしても、繰業していた位置が領海内に入らないために、第一、第二大邦丸が拿捕されたときの向うの証言が9マイルだとしましても、これは国際的な面で規定されております3マイルに入らないわけであります。それで今度は拿捕される前、操業しているときに、馬羅島の近所に1回、それから済洲島の真西にあります遮帰島沖というところがございます。それが約2マイル半くらいのところ、辛うじて領海に入っておる、そこへ入って操業したことがあるということを船員の1人が洩した。お前からはどうしてそれを承認しないかという、そういう全く嘘をでっち上げて来て、私らがそれを反駁するにもかかわらず、遂にそれに強制的に捺印させられたようなわけであります。

それから待遇その他につきましては、浜行証人より大体申上げましたから、その程度にいたしまして、拿捕される当時乗っておりました向うの官憲は、警察、憲兵隊、特務隊、情報隊の4つの官庁の方でありました。警察が約6人から7人くらい、憲兵が2名、特務隊1名、情報隊1名、土地の顔役らしい人が2名ぐらい乗り込んでいました。これは翰林港入港以後判明したものであります。

そして私らが釈放されますときに、今浜行船長より話も出ましたが、米軍に対して第一、第二大邦丸の船体及び船員を受渡すというその調印が行われましたあとで、査察課長は、今浜行証人の申しました通りでありましたが、食糧の点につきましても、差上げたいのは山々であるが、まあ買って帰って欲しいというようなふうで、そのときは警察でお世話しましようというような状況でございました。それから参考事項としまして、済州島周辺で拿捕されました船が現在済州島に、水上署に保管されている点を少し申上げたいと思います。第二十八海鳳丸、これは米式網巾着漁船であります。それから松寿丸及びその附属の火船1隻、それから七福丸という以東底曳船が繋留されております。網は、カバーをかけてあるのはほんの一部分に過ぎず、全く使用されないような状態になっておりますし、併しながら、浸水、浸入して来る水だけは辛うじて引いておるようでありました。

大体これを以ちまして終りますからあとは質問によってお聞き下さいませ。



[090]
無所属 千田正
外務大臣にお尋ねいたしますが、防衛水域内部におけるこのたびの不祥事件でありますが、これに対して拿捕に向ったところの韓国軍は、これは国連軍の命令によって行われたものとお思いになっておりますか。それともこれは韓国独自の行動でこうした拿捕をやっておるというふうに外務大臣はお考えになっておりますか。

[091]
外務大臣 岡崎勝男
国連軍の命令ではないと信じております。